巨椋池とは?

巨椋池の概要

○巨椋池は現在の京都市伏見区・宇治市・久御山町にまたがる場所にかつて存在した池で、桂川、宇治川、木津川の流れ込む游水池であった。
○巨椋池の北側には多くの島州が形成されていた。現在も残る槇島や向島や中書島などの地名はそこが池に囲まれた島だったことに由来する。
○豊臣秀吉によるものを始め繰り返し河川改修が行われ、1910年(明治43年)に宇治川の付け替えが行われた。この工事によって巨椋池(大池)は、周辺から流入する生活排水や農業排水の排出が滞ることになり、水質悪化により漁獲量が減少したり、マラリア蚊が発生したりする問題が生じた。そして春から夏にかけて蚊が大量発生し、付近住民は蚊燻をたかなければ夕食の箸を取ることさえできないようになった。
○このような状況の中での地元の働きかけもあり、国の食糧増産事業として国営第1号の干拓事業が実施されることになった。
○干拓事業は、国営・府営・組合営の分担により行われた。国営干拓事業は1933年(昭和8年)から1941年(昭和16年)にかけて行われ、巨椋池は干拓され、農地になった。
○干拓前の巨椋池は東西4キロメートル、南北3キロメートル、周囲約16キロメートル、水域面積約8平方キロメートル(約800ヘクタール)、平均水深は90センチメートルであった。
○池には食虫植物のムジナモが自生し、1970年代に種指定の天然記念物となったアユモドキやイタセンパラも生息した。
(Wikipediaからの抜粋)

巨椋池が干拓されずに今に残っていたら?

○干拓地の三大用途の一つとしての水田の必要性は相対的に下がっている。したがって、元の巨椋池(大池)の三分の二の大きさの池が残存していると仮定する。
○新鮮な宇治川の水を制御して流し込み、一方で排水して滞留しないようにして水質を保持。
○高級魚の養殖池としての水産業の創出と、鳥等のための自然保護区域とするのはどうでしょうか?

○夢が広がりますね♪